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マイトガイ「S」の自動車特選街: 第6面●輸入車よもやま話アーカイブ

第6面●輸入車よもやま話の最近のブログ記事

〜Louis-Joseph Chevroletという人物〜

●2011年11月3日で、生誕100年を迎えたシボレー。しかし日本では同ブランドの源流について、あまり広く知られていないように思う。
シボレーのブランドマーク誕生の諸説は、既稿の別テーマをご覧頂くとして、この「Chevrolet」というブランドそのものを丹念に辿っていくと、1878年12月25日、クリスマスの日にスイス・ベルンジュラ地方で生まれた「ルイ・ジョセフ・シボレー(Louis-Joseph Chevrolet)」という人物に行き当たる。

●ルイ・ジョセフ・シボレーことルイは、欧州で多感な青年期の大半を過ごし、馬車のメカニズムを通じて機械工学を学んだ。
そしてアメリカ人自転車レーサーのヴァンダービルトに誘われるままに19世紀末にフランスを離れ、カナダ(ケベック州モントリオール)を経て、米国に渡ってきた移民のひとりだった。
そんなルイが、大西洋を渡ってやっきた当時の米国を国家という切り口で見ると、まだ安定することなど念頭に無い青年期、20世紀を目前に迎えたばかり。

〜新興勢力シボレーモーターカーの創設〜

●当時は現代のIT産業の隆盛に似て、自動車産業が最先端の新興ビジネスであり、ルイは持ち前の腕力と卓越したドライビングテクニックで、新星ビュイックを駆る気鋭のレーシングドライバーとして、米国内ではかなり名の売れた存在になっていった。
そこでルイは獲得した名声を足掛かりに、元々モノ作りに関心が高かった自身の三兄弟のガストンとアーサー。それに加えて、フランス人自動車技師のエティエンヌ・プランシュというメンツを集結。自動車作りの事業化を模索し始めていた。

●一方で同じ頃、自分が立ち上げたGMから経営者としての地位を追われ事実上、失業状態となっていたウイリアム・クラポ・ビリー・デュラントもこの計画へ参画。投資パートナーのウィリアムリトルと、デュラントの義理の息子であるエドウィンR.キャンベルがメンバーが加わり、自動車メーカーとしての「シボレーモーターカー」を創設した。
GM創業者という経営上の強い味方を得たシボレーは、1911年にT型6気筒ヘッドを持つ4904ccのシボレー・クラシック・シッスクを開発。これが同ブランド初の量産車である。

〜GM創業者デュラントの果たした役割〜

●このクラシック・シッスクというクルマは、当時のアメリカ人がシボレーという名前から連想したイメージとは異なる無骨なクルマだった。
それでも1914年末までに9000台もの車両販売を達成。後に新型6気筒を搭載したモデルを。さらに4気筒エンジン搭載のH型へと続き、トップメーカーとして先行していたフォードのライバルとして販売競争を演じ続けるまでになった。

●やがて時代が巡り1920年代に入ると、自動車販売の「信用売り」に難色を示すヘンリー・フォードを尻目に、デュラントが分割払いの車両販売を開始。これをテコに1928年には、米国内9工場だけでなくカナダ工場も含めて100万台を大きく超える生産台数を記録。シボレーの地位を不動のものとした。

●しかし肝心のブランド名を提供したルイ・シボレーは、事業を立ち上げて間もない頃からクルマ作りでデュラントと対立を深め、ある日、デュラントがルイに、「安っぽい紙巻き煙草を吸う習慣をそろそろ変えてはどうか」と進言した些細なことから仲違いが深刻化。1915年に保有株をすべてをシボレーモーターカーに売却。これを契機に自動車ビジネスの一線から退くこととなった。

〜遺した華々しい功績だけが人生の価値ではない〜

●ただ元来ルイは、著名なレーシングドライバーとして米国内で高い名声を保ち続けていたことから、1916年以降もレースシーンでは華々しい活躍とリザルトを残しており、また新会社のフロンテモーターズコーポレーションの設立にも尽力した。が1929年の株式市場の暴落で保有蓄財の殆どを散財。終に1941年の6月6日、ミシガン州に於いてほぼ無一文のまま他界した。

●21世紀を迎えた今日。GMには欠かせないビックネームとなったシボレーは、スポーツカー、フルサイズピックアップトラック、セダン、そしてクーペといったスタイル別のモデルラインナップの充実にとどまらず、次世代EVに於いてもブランド価値を強く輝かせている。
そしてルイ・ジョセフ・シボレーは、インディアナ州の聖ヨセフ墓地に埋葬されており、彼の胸像はインディアナポリスモータースピードウェイ博物館の入り口に立ち、その偉功を今に伝えている。

〜アルファロメオの始まり〜

アルファロメオの誕生は、1900年代初頭(1910年)。当時、欧州の自動車産業界で一定の成功を収めていたフランスのダラック社が、イタリアで自社製品のノックダウン生産を行うためイタリアーナ・ダラック社を設立したことに起因する。

●しかしこの頃の自動車業界は、今で言うところのベンチャー産業であることから、市場環境などの外的要因に大変弱く、当時、欧州経済の低迷で同社の業績が悪化し始めたのを契機に、ミラノ農業銀行の融資を受けた投資家グループがイタリアーナ・ダラック社を買収。社名をロンバルディア自動車製造会社( A.L.F.A. )と改め、再スタートを切ったこと。これがそもそものアルファ社の始まりである。

〜高額車造りに徹するスタンス〜

●この頃のアルファ社は、グランプリレースやミッレ・ミリアへの参戦費用を何とか捻出するために、「一般向けの自動車も製造販売しますよ」という、今日の自動車ビジネスとは遙かに掛け離れたスタンスで、今の自動車業界に於けるフェラーリのような生き方を逸早く実践していた。ゆえに製造されるクルマたちは、いずれもレース活動で培われた技術をフル投入されたいわば「スーパーカー」であって、大変高価な車両だった。

〜欧州自動車業界では上席扱い〜

●その頃のアルファ社は、史上初の世界選手権王座を獲得するなど、「自動車レースはアルファのためのにある」と言って良いほどの華々しい活躍を残している。今は、トリノ市生まれでかつてのライバルだったフイアットの傘下に甘んじているが、レース活動を「自動車産業の社交界」として捉える欧州的な見方で、アルファロメオは、今日、世界の高級車ブランドとして栄華を極めるメルセデスよりも断然格上である。フロントマスクに付くエンブレムの起源も中世の動乱期にまで時代を遡る。

〜十字軍が築いた歴史を背負う〜

●ちなみにアルファのオリジナルエンブレムは、4つの要素がひとつに重なってできている。まず左側は、イスラエルの城壁へ真っ先に十字架を打ち立てた十字軍に因んだミラノ市章の赤十字。

●さらに右側はビスコンティ家の初代当主が十字軍時代に殺したイスラム兵士の盾に付いていた蛇のマークがビスコンティ家の紋章として後世に受け継がれたとも、偉大なる者の化身である龍が飲み込もうとしている異教徒(サラセン人)あるとも言われている。が、いずれにしてもそれらの紋章は、他国の富を略奪した勝者の歴史を物語るものだ。

●1925年には世界チャンピオンになった証として周囲を月桂冠で取り巻き、ALFA−ROMEOとMILANOの文字の間には、イタリアのサボイア王家の紋章である「縄の結び目模様」が組み合わされた。ただその後残念なことに1972年にはMILANOの文字が消滅。1982年以降には、栄光の月桂冠も廃止されるなど、そのでデザインは次第に小変更が加えられ現在に至っている。

〜コンセプトを暖め続けることの大切さ〜

●そんなアルファの歴史のなかで特筆すべきことのひとつは、創業以降ほぼ80年もの間、絶えることなくスパイダー(オープンカー)を作り続けていることだ。現行モデルは、プラットフォームの共有化が史上命題となっている自動車メーカーの常もあって、大型化したクーペモデルの「ブレラ」をベースにピニンファリーナとアルファロメオのデザインセンターが協業して仕上げたものだ。

●一方で、スパイターを開発する上で原点となるコンセプトは、1954年のジュリエッタ・スパイターから生まれ、映画「卒業」で登場した1966年リリースの105系スパイダーを育んだところにルーツがある。

〜時代にあえて迎合しないこと〜

●この105系スパイダーは、各メカニカル部の基本構成を大きく変化させずになんと延べ34年もの間、延々と造り続けられた。これは通常なら「新しいことを是としなければならい」スポーツカーというセグメントから考えると、到底あり得ない超ロングセラー車であることを意味している。

●その基本サイズは4200mmの全長。1630mmの全幅。1290mmの全高。トレッド寸法・前1325mm後1275mm。フロントサスはダブルウイッシュボーン+コイルの独立懸架。リアはアクスル・ハウジングを左右1本づつのトレーニングアームでデフと吊り下げて支える3リンク方式。ステアリング機構はウォーム&ローラー式と、現代の技術水準からするとまさしくクラシックカーそのもの。まるで評価の対象外になってしまう仕様に間違いないのだが、その実、「走り」は今でも結構イケる。

●1967年の1750ベルリーナ登場を契機に生まれたのが1750スパイダー・ベローチェで、118bhpの高出力を誇り、エクステリア的にはサイドマーカー・ランプがホイールアーチ後からフェンダー先端に移動。筆記体のエンブレムの廃止などの数々の小変更が加えられた。1968年には、GT1300と同じエンジンユニットを搭載した1290ccモデルが加えられ、結局同シリーズ1は1600モデルが5325台。1750モデルが8722台。1300モデルは7237台が生産されている。

〜シンプルさが走りの明快さを生む〜

●登場3年目を迎えたスパイダーは、テールデザインの末端をスッバリ切り落としたコーダ・トロンカ・ボディに変貌。搭載エンジンも1750と1300の2タイプに絞り込まれた。デザインはグリルの横格子が5本から3本に減少。バンパーの大型化。ワイパーの並行作動化。埋め込み式ドアノブとヘッドライトカバー(ただし1750のみ)追加。内装ではコンソールボックスが追加されるなど、相変わらずシンプルな構造だが小さな改良点は多方面に亘っていた。

●1971年には1750モデルが2000ccユニットタイブにバトンタッチ。しかし実のところこのジュリエッタSS発展型のダブルチョークウェーバー搭載モデル(69年まで)がシリーズ中、最も走行性能が高い。1972年には1600ccユニット搭載の1600ジュニアが再登場したが、内外装は1300モデルと共通。結局、2000モデルは38379台が生産され1600は4848台が造られている。

●いずれもエンジンブロックはアルミ合金鋳物で、1954年当時から脈々とダブルオーバーヘッドを使っているというのは、当時としては十二分に革新的なもの。当初1300ccからスタートしたエンジンブロック内部は、4気筒の鉄製ライナーが一体になっているタイプである。

〜新しさがウケるとは限らない〜
●さらにスパイターは1982年に3度目のマイナーチェンジを受けた。基本スタイリングに大きな変更はなかったが、フロントエアダムにリアスポイラーを装備。さらに前後の大型樹脂製大型バンパーが組み込まれ、伝統のフロントグリルはバンパーへの組み込み型に変わった。

●ヘッドランプは前進してライトカバーは廃止。サイド・マーカー・ランプが再びホイールアーチ後に移動。通称「アエロディナミコ」と呼ばれ、素人に媚びを売るような樹脂製エアロパーツが付いているなど、アチコチの改良点は大多数のエンスージアストには嫌われたが、クルマとしてのデキは決して悪くない。ただしこの頃のモデルはインポーターの都合もあって平行輸入車が主流であった。

●エンジンは2000と1600の2種。欧州向けの2000はキャブ仕様の128bhp。対して米国向けはインジェクションの115bhpで、日本に入ってきたのは殆どが米国仕様ばかり。外観的違いは欧州型が鉄ホイール。日本専用車は星形アルミが付く。このシリーズ3は2000が31808台。1600が5400台を販売。ちなみにUS仕様のインジェクションモデルをキャブに換装はできない。

●また1986年には大沢商会が大量のクワドリフォリオ・ヴェルテを輸入した。これは従来型の高性能バージョンという位置付けとは離れ、実のところ既存車の豪華版という感じが強く、最終型と同じアルミホイールにリッチな皮内装。追加されたサイドスカートで迫力は増した。ただ樹脂製のハードトップは実用的かつメーターフードが大きく拡大。中央にはベンチレーターとアウトレットが追加されていた。ステアリングホイールのグリップが太いのが特徴の同仕様は2951台の登録だ。

●1990年にはビニンファリーナで修正を加えステアリングにバワーアシストが付いた「シリーズ4」が登場している。欧州向けにはキャブ仕様の1600ccモデルもあり、米国向けはボッシュ・モトロニックML4,1インジェクションにキャタライザー付き。生産台数は2000で18456台。1600は2951台だ。

〜買う価値を伝えることの巧みさを学ぶ〜

●現行ひとつ前のモデルで、駆動形式が大きく変わったFFスパイダーは、155シリーズと同じくフィアット車との共通コンポーネンツ「Tipoシャーシ」を流用。それでも4輪ストラットにサブフレームを追加するなどアルファの技術者は踏ん張りを見せ、追加されたマルチリンク・リア・サスペンションはトー調整を積極的に行うことで低中速域でのニュートラルステアを実現。さらにファイナルオーバステアの特性も狙うというアルファらしい発想が盛り込まれている。

●現行車もフロント・リア・シートの刺繍・メーターパネル・ステアリング・ペダルに至るまで、伝統のエンブレムを配置するなど、徹底した雰囲気チューンが施されている。けれども「街中のとり回しには難渋」したり、「掃除をしていたらネジが1本足りないことを発見」する、「雨天走行後にドアを開けたら雨粒がポツリと落ちてくる」などイタ車特有のノリは未だに生きている。しかしドイツ車のような凡庸なクルマに飽きた層には良い刺激になるし、アルファロメオはクルマに乗ることが、決して実用目的だけでないことを教えてくれる。

●消費者がモノを買う時、そこに求められるユーザーの欲求の満たし方には様々なスタイルがある。それは「機能的な価値」か「情緒的な価値」か。「クルマに乗ることと、アルファに乗ることは違う」と主張しているように思える同社の姿勢。そこにはクルマを使うことで得られる価値が何なのか。それが造り手側の主張として製品に込められているのだろう。

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