HOMEサイトマップ第1面●メーカー動向・生産

マイトガイ「S」の自動車特選街: 第1面●メーカー動向・生産アーカイブ

第1面●メーカー動向・生産の最近のブログ記事

~夢破れたスズキとVWの包括提携~

●暮れも押し迫った2009年の12月。互いの協議を重ねた末、ようやく締結を果たしたスズキ・VWの包括提携劇だった。
しかしスズキは先の9月12日、同社取締役会を経た上で「VWとの業務提携並びに相互資本関係を解消する」との報道発表を行うこととなった。
またスズキは、資本関係の完全な解消を実現するため、VWが議決権総数ベースで、19.89%を保有するスズキ株の買い取りをも表明している。

●これを受けたVW側では、スズキの現行株価が、提携当時の買い取り価格を3割程下回っていること。また今後の交渉を有利に進めるためもあってか、「スズキの株式は今後も保持し続けたいし、将来の協力関係にも大いに関心がある」と語っている。
思えば、そもそもこの両社は、包括提携にあたって、スズキ側は「VWから環境技術の提供を望んでいた」し、一方でVW側はスズキを通して「アジア圏の新興国市場において、VWグループの影響力拡大」に期待を賭けていた。

~不可能となったメーカー間の棲み分け~

●しかし先頃、スズキが自社の新型モデルに、フィアット製ディーゼルエンジンの搭載を決めたことに対してVWは「VWグループ外からのエンジン調達は提携契約に違反する」と表明。
スズキの原山保人副社長は「VWはスズキへの影響力を拡大しようとしている」と述べ、常に大資本とは異なる道を選び続けてきたスズキにとって、VWとの長すぎるハネムーン期間の段階で、互いの思惑違いが大きく鮮明化してしまった

そしてVWによるプットオプション(設定時点の市場価格に関係なく特定価格で売る権利)並びにコールオプション(設定期日までに市場価格に関係なく特定価格で買う権利)の行使によるポルシェAGの買収話が持ち上がっている
もはや自動車メーカー相互の住み分けができなくなってきた欧州の自動車業界は、景気見通しの不透明感もあって投資顧問会社も巻き込んだビジネスゲームの様相があらわになっている。

~スズキが拘る自主独自路線の原点~

●そんな過酷な世界市場で、自動車メーカーとしての自主独立を求め続けているスズキの原点はどこにあるのか。
それは大工出身の豊田佐吉と並び賞される程の才を持つ鈴木道雄が、地場浜松の大工棟梁へ弟子入りした後に、機(はた)大工に転向して鈴木式織機を開発。明治42(1909)年に、静岡県浜名郡天神町村で「鈴木式織機製作所」を創業したのが皮切りだ。

●当時「サロン織機」と呼ばれていた鈴木式織機製作所の機織機は、豊田自動織機が大資本の紡績会社向けの白生地用機織機を開発・供給していた。
一方で道雄は、家内工場向けの先染用機織機として開発・提供していた。つまり鈴木式織機製作所は、強敵の豊田自動織機とはあえて直接対峙しない独自戦略を選んだのである。

~ナンバーワンではなくオンリーワン~

●その後、鈴木式織機製作所は、大正9(1920)年に鈴木式織機株式会社として資本金50万円で法人に。昭和24(1949)年には東京、大阪、名古屋各証券取引所に株式を上場。
そして世の中が軍事需要に傾倒していく戦前の段階で自動車の研究開発を着手。敗戦後は軍事工場からの転換企業が、文字通り手探りで次なる事業ステージを模索する中、2サイクル30ccのエンジンの「アトム号」を試作した。

●これをベースに昭和27(1952)年に「自転車チェーンを直接駆動する構造」「ダブル・スプロケット・ホイルを備える」など、当時人気のホンダ赤カブ号には無かった独自機構を組み込んだ2サイクル36ccの自転車補助エンジン「パワーフリー号」を発表した。

~地場の技術者が育んだ個性と資質~

●昭和29(1954)年には、国産車初のFF車でラック・アンド・ピニオンのステアリングギアを持つ「スズライト」の開発に成功。同車のリリースを契機に今に至る軽自動車王国の礎を築いた。
翌昭和30(1955)年の試作3号でピックアップ、セダン、ライトバンと3種のボディも輩出。ただ販売開始当時は月産3~4台の生産規模しかなく、また1台生産するたびに10万円の赤字が発生したという。

●実績が必ずしも企業収益に直結しなかったこの時期、スズキを支えた企業経営陣は、地味で一生懸命さだけが取り柄の地場工業学校出身者たちであり、それ故に当時から官僚的な高級技術者たちが絶対多数を占めていた日産とは対照的な社風が形成されてきた。

~ひとりの拘り、地域の資質、モノづくりへの想い~

●しかしたとえ独自戦略を信じる経営陣や上司が命令したとしても、現場の技術者にモチベーションがなければ、持ち前の集中力も持続する訳がない。
特に多数のメーカーがひしめく自動車王国の日本において、大資本を追う立場のスズキは、開発コストの圧縮でも「極限」を求められる立場だ。

●それでもスズキが世界に対して結果を残してきたのは、常に独自戦略を貫いてきた鈴木道雄の拘りが原点にある。それは浜松という土地が育んだ楽観的で愛すべき前向きの資質といってもいい。
モノ造り企業が根を下ろす地域の独自性。それは日本のどの地方にも存在する。また国というのは、そうした地方の集まりでもある。
そうした個性の違いを大切に想い、個々の自動車メーカーが受け継いできた「拘り」を知ってクルマを選ぶこと。いささか懐古趣味かも知れないのだが、そんな愉しみが、今後もできる限り永く続いて欲しいと思う。
〜消えゆく名門自動車ブランドたち〜 

●ゼネラル・モーターズは、既に昨日となった1月4日を期限に、サターンとポンティアックの在庫一掃セールを行った。 具体的には全米各地のカーディーラーが、7000ドルのインセンティブと引き替えに新車のサターンやポンティアックを購入。こうしてクルマ販売の流通網に乗った各車両は、エンドユーザーへ、いわゆる新古車として販売される仕組みとなる。 

●2009年度末時点で、サターンならびにポンティアックの新車在庫は2万台を大きく割り込んでいるが、これにより、全米におけるサターンとポンティアック全車が一掃され、以降、新車としてのサターンとポンティアックは存在しなくなる。

〜自動車王座の分岐点となったクルマ〜

●サターンとポンティアックは初登場時に、双方共まさに一世を風靡した自動車ブランドだった。 サターンは、現役自動車ユーザーの記憶に新しいと思うが、1980〜90年代に日本車を筆頭とする外国車に対して劣勢だった同社が、それらに真っ向勝負を挑むべく造られた。 

●その車名はアポロ計画支えた有人月ロケット名を冠したもので、この単一ブランド車のためにゼネラル・モーターズは、テネシー州スプリングヒルに鋳造・ボディプレス・組立・塗装のすべてを網羅した10キロ平方メートルにも及ぶ広大な生産工場を建設した。

〜クルマ造りの国際標準が激変した〜

●本来、ゼネラル・モーターズのクルマ造りは、エンジンやトランスミッション、ボディ等の個々部位や構成パーツを、異なる離れた全米各地域で製造。最終的にすべてを一拠点に集約して組み立てる格好が常であったので、サターンのクルマ造りのスタイルは、米国のみならず世界の自動車業界に驚きを与えた。 

●工場内も空調が完備、職場環境としても経営側と労働側の垣根を低めた米国内の自動車工場の体裁として極めて異例のもの。おまけにクルマの販売スタイルも、サターンという単一ブランドのみを販売する店舗網を新構築。このスタイルは日本国内でも踏襲されていた。 

〜100年前に記念すべき第一歩を記す〜
 
●一方、サターンに比べ、ポンティアックの歴史は、それよりも遙かに旧く、時代の流れを1925年にまで遡らなければならない。 1920年代頃は、低価格を売りとしていたT型フォードが、永らく販売2位につけるシボレーを大きくリードしていた時代で、馬車製造を源流に流麗なスタイルを競ったコーチビルダーが「他とは違うクルマを求める層」から熱い期待を受け、持てる技術の粋を競った時代でもあった。

●また当時は、自動車が一般市民に広く受け入れられ、低価格車市場が爆発的に活性化、そんな時節の要請を受け、T型より華やかな後継車としてモデルAが1927年に登場したり、クライスラーからは、メイフラワーの到着港にあやかったプリマスが登場(1928年)した時期でもある。

〜ゼネラル・モーターズを支え続けたブランド〜

●既にゼネラル・モーターズでは、創業者のビリー・デュラントが、同社を二度にわたって追われた直後で、500ドル余りで売り出していたシボレー・ロードスターと約900ドルで販売されていたオールズモビルの間を埋める中間車種として当時の社長、アルフレッド・スローンが命じて造られた。

●ポンティアックという名前は、同車開発の拠点であるミシガン州ポンティアックにあやかったもの、さらに遡るとその名前はネイティブアメリカンの酋長がその祖となる。 以降、ポンティアックは、21世紀を迎えるまで永らく、ゼネラル・モーターズの自動車販売台数で車両ブランドとして上位をつけていたが、その名も2010年を迎えた当月、新車販売のブランドとして消失した。

〜再び迎えた量産自動車の黎明期〜

●考えてみれば1920年代という時代は、そうしたガソリン自動車と共に、スタンレーからは蒸気エンジンを搭載したドーブルという名のクルマもごく普通の一般車として街を疾走していた。 当時、多彩な動力源を持つクルマがあった、いわば「量産自動車の黎明期」にあって、ガソリンエンジンを搭載しない蒸気による動力源を持つクルマが、アメリカの街を走った最後の時代でもあるのだ。 

●それから90年を経た今日。自動車の代わりとなる特筆すべき公共交通機関も持たず、かつある意味、不自由なほどの広い国土を持つ米国に於いても、同国民はようやく自然と共生して生きていくことを学び始めている。ゼネラル・モーターズとクライスラーが破綻し、米国の交通社会を支えた名車が消えていくことは、この米国で100年間続いた自動車パッケージの終わりを象徴しているようだ。

〜トヨタのハイブリッド戦略に生じた迷い〜
 
●翻って日本では、2代目プリウスを仮想敵としたインサイトが2月に登場、以降10ヶ月で8万1316台を販売(米国は1万8933台)。5月から販売された3代目プリウスは、2009年11月までで18万6300台を売り上げた。

●そして迎えた2010年。ホンダはシビック・アコードと2種のハイブリッド車を投入予定。日産もフーガハイブリッドの投入が目前だ。 迎えるトヨタは総勢14のハイブリッド車を持つが、さらに3列シートを備えたミニバン系、小型車ベースのハイブリッド車を追加投入を計画している。ただ先行しているトヨタは、2期連続営業損益の赤字を食い止める命題を抱えていることを含め、心の内には十八番のハイブリッド車戦略に迷いが生まれている。 

●インフラ面では、日本ユニシスが青森県で行う通信ネットワークを組み合わせた充電インフラシステム。既に2008年にオープンしている越谷市・越谷レイクタウンの電気自動車向けの急速充電施設など、全国でPVHだけでなくEVや電動バイクもカバーした充電施設の整備が進む。

〜体力を蓄えつつあるトヨタのライバルたち〜
 
●トヨタやホンダを眺めながらも自社の戦略上、一足飛びにハイブリッド車をパスし電気自動車へと走る日産は、2009年暦年で新車販売1300万台と急拡大する中国市場下で、前年比約20%増の70万台と大きく伸び悩むトヨタを尻目に、前年比約28%増の90万5000台の販売見通しを打ち出した。

●本来は2012年の照準として設定していた中国内販売100万の大台も早くも目前、着実に企業体力を蓄積しつつある。そして本年末には、そんな日産から、いよいよ電気自動車リーフが世界市場に向けて投入される計画だ。 

〜選択肢はEVか、HVか、PHVか、それとも...〜
 
●新たな年を迎えて、想いを新たにしなければならないのはその実、毎年のことなのだが、自動車市場では本当に2009年までとは異なる全く新しい時代を迎えようとしている。 公共の交通網のない米国社会では、自動車がなければ、そこで暮らし続けることは国難となるが、日本では都市部を中心にクルマのない生活を始める層も決して珍しくない。 


●そうしたなかで自動車の新たなパッケージを求めた時、その動力源にカーユーザーはどれを選択するのか。化石燃料という安く豊富なエネルギーに支えられた文明が限界にきた21世紀初頭。その選択には、個々ユーザーがひいきにする自動車メーカーの命運以上に、今後の100年へと続く自動車社会構築のための1年目という重みが含まれている。

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち第1面●メーカー動向・生産カテゴリに属しているものが含まれています。

次のカテゴリは第2面●自動車技術・環境です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。