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マイトガイ「S」の自動車特選街: 2005年8月アーカイブ

2005年8月アーカイブ

●2005年の世界販売台数見通しを816万台に上方修正。さらに米ビジネス・ウイーク誌と英インターブランドの「世界の企業ブランド価値番付」で日本企業唯一のトップ10入りを果したトヨタ。そんな同社を筆頭に、日産、ホンダの国内自動車メーカー上位3社は揃って海外生産で100万台を突破。過去最高水準を記録している。一方でマツダ以下、三菱、富士重など国内下位メーカーの業績は決して芳しくなく、このことからいよいよ日本メーカー間でも「優勝劣敗の構図」が明確になり出したという業界人も出てきている。

●ただ低調の下位メーカーでも、地域別に見ればそれなりの成績を残している。例えばマツダは、中国での上期販売実績で前年同期比53.6%増の7万357台を記録。これは半期の販売台数としては最高値で、当地の主力車種「マツダ6(日本名アテンザ)」を筆頭に中国販売は好調だ。

●さてそんなマツダは1920年創業の「東洋コルク工業」が母体で1984年に「東洋工業」からマツダとなっている。1931年からは三輪トラックの生産を開始。1958年には小型トラック「ロンバー」で四輪市場へ挑戦。翌々年の1960年には「R360」で乗用車市場に進出した。1961年にはドイツNSU社とバンケル社の双方からロータリーエンジンの基本技術を導入。メルセデスなど大手競合がロータリーエンジンの開発を次々と断念するなか、1967年に同エンジン搭載のスポーツカー「コスモスポーツ」を実用化。その高い技術力を実証した。

●ただマツダはその歴史において経済的に順風満帆とはいえず、オイルショックのあおりを受けた1979年からはフォードから資本を受け入れる体制に陥り、1981年には既存販売網にフォード車を販売する「オートラマ」を追加。1989年にはシトロエンを販売する「ユーノス」、フィアットを扱う「オートザム」の5チャンネル体制を構築するに至っている。

●しかも5チャンネル体制の構築は不幸な事に日本のバブル崩壊とぶつかり、1995年にはフォードからの出資比率を25%から33.4%に大きく引き上げる要因になる。この流れから1996年には初の外国籍社長ヘンリー・ウォレス氏が就任。さらに次いで就任したジェームス・ミラー社長と続いた。しかしふたりはむしろ労使協調を重視した温情経営をおこなっていたようだ。

●ところが2000年にマツダは1500億円もの赤字を計上。当時38歳のマーク・フィールズ社長は「変革か死か」を旗頭に、広島周辺の部品メーカーを優遇しない世界調達体制を構築。さらに本社工場の一部閉鎖。2001年には2000人余りの優遇希望退職を募るなど、この冬の時代は2002年に4代目外国籍社長ルイス・ブース氏が就任するまで続いた。

●そして迎えた2003年。フォード本体の人事異動で井巻久一氏が16年振りの日本人社長となったが、今やフォードとマツダの連携は10年前より緻密になっている。例えばエンジン開発では、2000cc4気筒の開発をフォード全域から引き受け、逆に6気筒はフォードから供給を受け、また2003年からは欧州フォード・スペイン工場でデミオの生産も開始。かねてから懸案だったフォードとの車台連携はアクセラ(欧州名Mazda3)で実現した。

●これまでフォードの援助下で打てる手はすべて打った状態のマツダ。だからこそ今後はグループ内において、フォードが期待する役割をどんな形で担うのかが問われている。そしてそれは攻めべき市場で売れるクルマ造りを行えるかどうかにある。つまり未来に向けてマツダは、グループ全域のボディ共通化を進めつつ、同時に東アジア発のプレミアムメーカーであり続けることを求められている。

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